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【告知】個展『 イトシコノミヤ 』

薄暗がりにて幸福を祈る。

  すべて同じに生りはしないなら。

  仄明るい此処から見下ろす。

  灰になる日を想像している。

2017 / 9.15 (Fri) ~ 9.25 (Mon)  智乃-chino-個展『 イトシコノミヤ 』

【開催期間】2017 / 9/15(金)~9/25(月)  ※火・水 定休

【会場時間】11:00-19:00 ※最終日9/25(月)は17:00まで

【開催会場】Gallery Artsoup(ギャラリーアートスープ)2階企画展示室

【会場住所】〒371-0023 群馬県前橋市本町2丁目1-6 [地図]

     (前橋中央アーケード通り)(JR前橋駅北口より、徒歩約15分)

Twitterハッシュタグ『 #イトシコノミヤ

 ……開催情報 / 制作過程 / 個展に関する呟き 等々していく予定。

会場の Gallery Artsoup(ギャラリーアートスープ)さん のブログでも展示会情報あり。

 周辺情報やその他の展示会の詳細などは こちら 。

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去年5月に開催された 初個展「色葬観-shikisoukan-」に続いて、二回目も

地元群馬の前橋市にあるGalleryArtsoup(ギャラリーアートスープ)さんを会場として開催します。

詩 × 文章 × イメージ による展示。

初個展の時よりも、最近定着してきた「散らばり」感を出せたら。

……いいなぁと考えているけれど、果たしてどうなることでしょう。

(絵が、色々なものをわりとよく貼付けたりもするので、もしかしたら

「ミクストメディア」と呼ばれるものかも……?と思い、「イメージ」と言ってみます。)

合わせて、今年2月中旬に県内伊勢崎のベイシアisホール会場の

「いろ・おと・もの@isホールvol.3」(2/18・2/19)

初日2/18(土)にて、ピアノ講師:須永理恵子 さんの即興演奏とコラボした

ライブペイント作品の完成作品を初披露予定。今回はこの子がメイン。

ライブペイントの動画はYouTubeでも公開中です!

『いろ・おと・ものvol.3』のライブペイント際の心情や、

その他のことも残してみました。感想文。

今回の『イトシコノミヤ』ですが、実は4年前くらいから、

「いつか作品の名前にしたいなぁ」と、キーワードとしてはずっと

自分の中に沈んでいたものでした。

最初はもっと違う名前が頭から離れないのと、まるで違う強いイメージが

「色葬観」が終わった後からずうっと頭にいたりもして、でもそれも違う気がして。

個展タイトルを決めるところから行き詰まっていた。

絵とかのイメージではなく、ひたすら文字や言葉のことばかり考えていた。

勝手に浮かび上がってくるイメージと、言葉がずれていて、

どう折り合いをつけようか昨年12月くらいからずっと考えていたけれど、

どうにもうまく擦り合せができなくてもどかしくて仕方なかった。

イメージではなくて言葉が先行なので、そこが納得いかないと気持ちが悪い。

納得できないのに進むのも嫌で、時間ばかり過ぎていくからどうしようと思っていた。

やめちゃおうかとも思った。そういうことなのかなぁと。

今までの自分の書き溜めたものを片っ端から読んでいって、

やっと定まったのが『イトシコノミヤ』でした。

定まったきっかけも、思い切ることができたのも、須永理恵子先生との

即興コラボライブペイントのお陰で、その機会が背中を押して下さいました。

個展タイトルがカタカナなのは、想像の余地ができるかなと思ったから。

当時この言葉が浮かんだ時は意味がひとつだけのつもりだったけれど、

今になって、実はいくつも意味を重ねても耐えられるんだなと気付いた。

漢字だと一つの意味しか乗せられなくて固定されてしまう。

漢字では強すぎる。そうではなくて、ひとつでいくつも意味を乗せたかった。

乗せてみている言葉には、少し前ずれていた「勝手に浮かび上がってくるイメージと言葉」

両方を、少しずつ汲み取れるようになっている。

それまで、いざ決めてみたものの「この名前で先に進んで後悔しないかな」と不安だった。

バタバタと準備などしている間にあっという間に線画を描くことになって、

翌日にはもう色で壊してあげなくちゃいけない日を迎えた。

普段は、こういったペースではない。もっともっと、もううんざりしてしまうほど、

時間をかけたり、長い期間過程を見ないで目と頭をリセットしたりする。

「これでいいのかな……もっと時間をかけた方が良かったのでは」

「この子をメインにしてしまって大丈夫だろうか」

「こんなに早く進んでいくことになろうとは……」

「人前大丈夫なのか……」とアワアワしていた。

緊張と不安の中で、予定はなかったのだけど、

気付いたら絵をガリガリしたりしながら線画を色で壊して、

一通り壊し終えたら、「やっぱりこの子がメインだな」と自然と思えた。

ライブペイント中は緊張していたけれど、思いの外人前がどうとか、

いざ始まるとそういう緊張ではなくなっていた。

あの緊張感をなんて表せばいいのか、適切な言葉は見当たらない。

去年の個展の際の、アーティストトークで1時間半ほど

話っぱなしになって周りの人に置いてけぼりを食らわせてしまった時と、少し似ていた。

色々なことに気を払えなくなってしまう。

人が視界にいる時は一瞬そういった緊張が帰ってくるけれど、

目の前を、絵を見ている時はちがう。

目を開けたまま、起きたままで夢を見ている状態に近い。

し、そもそも絵を見ているのかどうかも微妙だ。

「きちんと沈めるだろうか」

「汲み取れるだろうか」

「どうなってしまうの」

「どう変わってしまうの」

「終わりを見るのがこわい」

「始まりがなければ終わりだってないのに」

「わからない」

「わかるのがこわい」

「ぜんぶこわい」

「こわいけどそれでも」

日頃無意識の中に潜んで、言語化されないままでいる、

ありとあらゆることに対する恐怖感だけ見ていた。

時間を要した輪郭ばかりの白と黒だけだったもの。

色で、自分の手で、時間の流れの中で壊れていくけれど、名残惜しいけれど。

それでも止まれないし、進めなくちゃならない。

完成が見当たらない。そもそもこの子は完成してくれるのかな。

完成も終わりも、ようは「そこだ」と決めるということ。決めることができるか自信がない。

できあがったものを好きだなと思えるだろうか。

私は好きな色があるけれど、作品自体には何色が必要なのか、欲しがっているのかわからない。

気付いたらガリガリと引っ掻いてしまっていた。

ガリガリしている間は、ずっと「出てこい、出てこい」と心の中で唱えていた。

緊張なんて可愛いものではなくて、恐怖感に似たようなものだけ、

何度も色を振りまいては広げていく行為の中で見ていた。

あの段階は、自分では「描く」というつくりあげる行為ではなくて、

逆にマイナスにする「壊す」という行為に近いものだと思っている。

大袈裟なのかもしれないけれど、言葉で表すと私の場合はそう。

壊していく中で、ようやくなにかしらひねりだして、意図せずひねり出した

その積み重ねにも意味を見出しながら。自分なりに受け止めながら、

ようやく作品の終わりの手掛かりとして担ってくれるのだと思っている。

いつだって、描き始めた時にその作品の終わりを、さっぱり想像できた試しがない。

端くれの端くれなりに絵を描いて時々外に連れ出す身としては、

それって大丈夫なんだろうかと、後ろめたくなる。

いつでも自分のやることなすことのすべてが「まちがっている」ような気がして、

いきているのが恐ろしくて堪らない。

もっと青紫になりそうな気がしていたけれど、違った。

普段あまり選ばないオレンジ色が入ってきたから意外だった。

描きながらガリガリと引っ掻いてみたのも初めてだった、

だから爪があんなに削れるとは思っていなかった。

「削れる」という表現をよくしていたけれど、本当に身体の一部が削れたのは初めてだったので、

「本当だったのか」「表し方、違っていなかった」と少し嬉しく思ったりした。

なんでもそう。こわいのは、こわかったのは、きっとみんなもだろうと思う。

絵という行為で置き換えて言葉で表しているだけで、なにも絵に限ったことではないと思う。

どんなジャンルでなにを表すにしても、表す活動をしていようがしていなかろうが、

きっとみんな、そういう根源的な恐怖感はどこかで感じていて、

それを奮い立たせながら、そうして取り組むことで世の中は回るんだろう、

そうして失敗も成功も繰り返してようやく成り立っているのだろう、と思う。

自覚していようがしていなかろうが、生きている間無意識にそれらはずっと行われていて、

そうやって、やっとの思いで今そこで息をしている。

絵を描く人は、作品をつくる人は「語りすぎない方がいい」とよく聴く。

私には、なにも言えない。わからない。100%あてはめることはできない気がしている。

だからこそ「かくあるべき」と、なにかにつけて言いきることができない。

私は、間違っているのかもしれなくても、「記録」としてこうして書き残しておく。

自分で振り返ることなどもしかしたらないのかもしれなくても、のこしておく。

いつか次に何かに繋がるような気がするから、迷った時の手掛かりになる気がするから。

普段うんざりして頭を抱えてしまうだけの羅列の山、それを

「書き溜めていてよかった」と、疲れ果ててようやく終わりを迎えたその瞬間に、

少しだけ自分のしていたこと、感じていた薄暗いものを許してあげられる。

お終わりや苦しいことの向こう側で、ちらっと気配を醸し出すものが気になる。

もう塵のようだと感じ始めていたものに、まだ役割が残っていたのだと気付くこと。

そのまま見殺しにしないで、埋もれた中からすくいあげられて、よかったなと。

「そう思えるから」ではなく、「そう思いたいから」、する。

本当に大変なのはここからで、あの色で埋もれた中から目を凝らして線画を探して、

髪は一本一本細い筆で描いていく。色が乗ってもさらにあれをしてこれをして。

もう、今から考えるだけで遅筆で技術に自信のない私は、気が遠くなってしまう。

けれど残念なことにこういう描き方しか満足にできないので、

「うう……しんどい……むり……放り投げたい……開催こわい……うう」と弱音を吐き吐き、

秋を迎えているのだろうなと想像している。

どんな秋を迎えているのだろう。

先のことなんてやっぱり考えても考えてもわからない。もう知らない。

色々話したけれど、わりと初っぱなからハラハラしている。

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